舗装された道路を外れて森の奥へ。見渡す限りのカラマツ林の中に小さな一軒家が建っています。これが、熊谷靖浩・絵美さん夫妻の住まいです。延べ床面積30坪に満たない家の南面は広々した庭。南に富士山を望み、夜は甲府盆地の明かりが眼下に広がります。雨が降れば、真っ白な靄に包まれ、雲の中にいるように感じることがあるそうです。
この家が完成したのは、2008年の晩夏です。それまで熊谷夫妻は神奈川県大和市に住んでいました。同居していた靖浩さんのご両親が他界し、住宅が密集した都会に住む必要を感じなくなったのだと言います。「田舎暮らしは僕の夢で、妻は昔から八ヶ岳南麓に住みたいと願っていました。二人の希望が一致したんです」。畑と庭をつくるため、広い敷地がほしかったのだそうです。
庭づくりを担当するのは絵美さんです。過去に健康を害した経験を機会に、衣食住に強い関心を抱くようになりました。これから、トマト、ナス、キュウリ、ズッキーニ、枝豆などを育てます。農薬はもとより、肥料も使わず、土と植物の力を信じて引き出す栽培方法を採るそうです。
周囲の森も、二人に惜しみのない恵みを与えてくれます。春は山菜や野草、秋はキノコ、地面に降り積もったカラマツの葉は、炒って煮出すことで上品な香りのお茶になります。「仙人のような生活」と、絵美さんは笑います。仙境のように静かな土地で、二人の半自給自足生活が始まろうとしています。
家の中心に料理ができる薪ストーブ
一台で厳寒期もホカホカ
子どもの頃から両親と訪れることがあった八ヶ岳南麓を、絵美さんは「なぜか、特別に心を惹かれる土地だった」と言います。靖浩さんにとっても、ここは親戚がいる、子ども時代から思い出深い土地でした。そんな二人が6年前に結婚式を挙げたのも、八ヶ岳のプチホテルでした。そこに置いてあったのが、この家を建てたアトリエデフのパンフレットだったのです。「デフさんは、家を建てるだけではなくて、食べることも含めた生活全般を考えています。そこが良かった」と、絵美さんは言います。
家を建てるにあたって、夫妻がもっともこだわったことのひとつが薪ストーブでした。料理ができることを必要条件として探し、茅野市で手作りをしているケンズメタルワークに行き着きました。「このストーブは5つの働きをするんです」と、靖浩さんは褒めます。暖房、オーブン、ご飯が炊けるかまど、鉄板、五徳を入れてダッチオーブンと、大活躍するストーブです。
設計の時点では、このストーブ一台で家中が暖かくなるプランを望みました。北杜市は、真冬の最低気温が氷点下10度近くまで下がります。冬、ストーブで暖められた空気は吹き抜けを通って上階へ。そして、階段を通って再び下階に降りてきます。家の中には、部屋を仕切る建具はなく、壁もほとんどありません。縦方向にも横方向にも開放的な屋内を暖気が循環しているので、真冬でも暑いぐらいに暖まるそうです。
「ひと続きの部屋は、会話も弾みます。キッチンに立つ私と居間の夫が、一緒にテレビを観て話ができるんです」。オープンなキッチンは、絵美さんの理想でもあったのだそうです。
暮らしをシェイプアップした小さい家
「リバウンドはありません」
家が完成し、神奈川から引っ越してくる時、荷物は2トントラック一台分だけでした。小さな家での二人暮らし。限られた面積を物に占有されない生活を望んだのです。
靖浩さんは、以前の家にあったほとんどの物を処分したそうです。「物を捨てられないのは、そこに染み込んだ思い出があるから。でも、使うことはない。思い切って処分しました」
新しい家では、収納スペースで頭を悩ませたくなかったのだそうです。タンスも買いたくなかったので、造り付けの収納をつくってもらいました。
所有していた物を整理したら、新しく買う物を吟味するようになったと言います。
「本当にほしいものしか買わなくなりました。チェンソーを買う時も、デザインや性能だけで飛びつかず、修理やメンテナンスが頼みやすい体制が整っている販売店を選びました」
物欲に振り回されなくなった今の状態は、「リバウンドなしのシェイプアップ」なのだそうです。
夫妻は、物よりも、今二人でここにあることのかけがえのなさに価値を置いているようです。晴れた日は戸外で働いたり、森の恵みを採集したり。雨が降れば家の中で読書をしたりパソコンに向かったりして過ごします。夕食時には採ってきた山菜を肴に晩酌し、昼間の出来事を語り合いながらカラマツ茶を一服。肩の力の抜けた日々を、「好奇心の赴くままの暮らし。刺激的で発見があります」と、評します。
縁が結ばれ交錯する田舎暮らし
ここに来て得たものは大きかった
八ヶ岳南麓で土地を探した時、夫妻は周囲に人家のない土地を望みました。「寂しくはないですね。他人の目も、騒音も気にならず、『やったー』という気分です」と靖浩さん。けれども、この地での暮らしは孤立したものではなく、むしろ意外なほど豊かな人間関係に恵まれたと言います。
「デフさんは、建てている最中の家がモデルハウスなんです(笑)。建て主さんが自ら壁を塗っている現場を見学して自分達も壁塗りをしたり、完成後のお宅を見せていただいたり。また、木工教室や薪割り機の講習などイベントも多いんです。そういう機会を通じて、お付き合いが広がりました」
熊谷さんの家が完成した時には、デフの主催でミニコンサート付きの見学会が開かれました。その半年後の冬には、オーナーズハウス見学会で自宅を開放。これから家を建てる人はもとより、すでに建てた人も集まって、ホームパーティーのように盛り上がったそうです。また、夫妻は八ヶ岳山麓の原村にあるエコラの森の手入れをし、森の中の窯でピザを焼く森林教室にも参加しました。そうやって出会った人達が集まって、味噌づくりもしました。それぞれの家に持ち帰って熟成させた味噌を食べ比べる日が楽しみです。
週末には、近くに住む親戚も訪ねてきます。
「ここに来て、得たものは大きかった」と、靖浩さんは振り返ります。初めての田舎暮らしは、いくつもの縁が結ばれ交錯する喜びに満ちているようです。





